The Pillows.歌手简介:
現在のメンバー
山中さわお (やまなか さわお)
ボーカル、ギター担当。the pillowsのリーダーであり、ほぼすべての楽曲の作詞作曲やツアーグッズのデザインなども担当する。
真鍋吉明 (まなべ よしあき)
ギター担当。レコーディングの際には、ミキシングにも参加する。
佐藤シンイチロウ (さとう しんいちろう)
ドラムス担当。
過去のメンバー
上田ケンジ (うえだ けんじ)
ベース担当(1989年 - 1993年)。脱退までリーダーを務めた。
現在のサポートメンバー
鈴木淳 (すずき じゅん、1968年7月18日 - )
ベース担当(1999年 - )。愛称はじゅん。千葉県出身。
過去のサポートメンバー
鹿島達也 (かしま たつや、1962年8月20日 - )
ベース担当(1994年 - 1999年)。東京都出身。
大事件
第一期
第一期とは結成日である1989年9月16日から初代リーダーであるベーシスト上田ケンジが脱退する1993年までの期間を指す。上田ケンジがバンドの主導権を握っており[5]、各メンバーの実力も発展途上の時期とされる[6]。
第一期KENZI&THE TRIPSの解散[7]後、べーシストであった上田ケンジはコインロッカー・ベイビーズのボーカリストであった山中さわおとの新しいバンド結成を構想した。その後KENZI&THE TRIPSのドラマーであった佐藤シンイチロウを誘い、またペルシャのギタリストであった真鍋吉明を加えて、1989年9月16日にthe pillowsが結成された[8]。
こうして結成されたthe pillowsはインディーズで活動を始め、キャプテンレコードから2枚のミニアルバムをリリースした。1991年にはポニーキャニオンからシングル「雨にうたえば」でメジャーデビューを果たし、シングル2枚とアルバム2枚をリリースした。
第一期the pillowsの楽曲には目指す明確なジャンルや方向性はなく[6]、メンバー自身の語るところによれば「The Beatlesのように良い楽曲を奏でたい」という漠然とした共通認識のみが存在した[8]。
パンク・ロックバンドとして人気を誇った[9]KENZI&THE TRIPSの知名度もあって精力的にバンド活動を展開した第一期the pillowsであったが、一方でバンド内での音楽的なイニシアティブの相違は徐々に深まり、1993年にリーダーの上田ケンジが脱退するにいたった。第一期the pillowsは上田ケンジと山中さわおという2人のコンポーザーを有していたが[6]、それぞれの目指す音楽性やバンドの方向性には次第に不可逆的なズレが生じていたという[5]。リーダーを失ったthe pillowsは、レコード会社の移籍なども重なり、およそ一年間にわたってバンド活動を休止した。
第二期
第二期は脱退した上田ケンジに代わりボーカルの山中さわおがリーダーとなって活動を再開した1994年から、1996年に「Tiny Boat」での失敗を機に活動方針の転換を図るまでの時期である。上田ケンジがいなくなって新たなthe pillowsを模索した時期であり、第三期への過渡期となる[8]。
上田ケンジ脱退から一年間の休止期間を経て活動を再開したthe pillowsは、新たに山中さわおをリーダーとし、ベーシストにはサポートメンバーとしてSUPER BADの鹿島達也を迎えた。またプロデューサーにSALON MUSICの吉田仁が加わるなど、バンドの様相が大きく変わった[8]。レコード会社はキングレコードに変わり、第二期の間にシングル3枚とアルバム2枚をリリースした。
第二期the pillowsの楽曲は、新たにリーダーとなった山中さわおがソウルミュージックやボサノヴァ風のテイストを取り入れたことによる[8]多彩なリズム・アプローチとスタイリッシュなサウンドをその特徴とし[6]、ポップなメロディーを目指しつつも凝ったアレンジの楽曲が多く作られた[5]。
第二期のthe pillowsは山中さわおが「売れることを凄く意識した時期」と語るように、周囲の意見を取り入れタイアップなどの商業戦略が積極的に試みられた[5]。しかし、望まれたほどの商業的な成功を収めることはできず、次第に周囲の考えと自分たちの求める音楽とのギャップに苦しむことになる[8]。特に1996年1月に発売した5thシングル「Tiny Boat」のセールスが低調に終わったことに対するメンバーの失意は大きく[5]、このことがきっかけとなってthe pillowsは第三期へと移行する。
第三期
第三期とは1996年6月の「ストレンジ カメレオン」発売以後、現在までの期間を指す。ロックやオルタナティブというスタイルを追求し[5]、現在のリスナーの多くがこの時期にthe pillowsを知ったとも言われるように[4]、緩やかに支持を伸ばし現在のイメージを確立した時期である。
6thシングル「ストレンジ カメレオン」は、大衆的な音楽を目指すも失敗した自分たちを「まわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン」とたとえ[10]、それまでthe pillowsが築いてきた音楽やスタイルを大きく否定するものであった。そのため「ストレンジ カメレオン」の発売は、反対するレコード会社とメンバーの対立の中、半ば強行的に行われた[8]。また「ストレンジ カメレオン」を収録した5thアルバム『Please Mr.Lostman』は、メンバーにとってインディーズへの後退も覚悟した「音楽業界への遺書」であり[5]、同時にどんな状況下でも自分たちの信じる音楽を頑なに貫く[6]という決意のアルバムであった。
こうしてバンドの方向性を大きく転換したthe pillowsは、「ストレンジ カメレオン」がFM局のヘヴィー・ローテーションを獲得するなど[11]、次第に支持を集めるようになる。また逆境を共に乗り越えたメンバーやスタッフの間の結束はより強固なものとなったという[8]。続く6thアルバム『LITTLE BUSTERS』で山中さわおが「初めてリスナーの方を向いて」「目の前の理解者に対する感謝の気持ち」を歌ったと語るように[5]、活動方針の転換を機にthe pillowsを取り巻く状況は徐々に好転していった。
その後、the pillowsはオルタナティブという手法を通じて、現在のロックバンドとしてのスタイルを確立していく[5]。この頃からサポートベーシストには鹿島達也に代わってTHE CHEWINGGUM WEEKENDの鈴木淳が加入した。
第三期the pillowsはオリジナル・アルバムの作成と並行してベストアルバムやB-side集をリリースし、2004年にはデビュー15周年を記念したセルフカヴァーアルバムとトリビュートアルバムを発表する[12]など、多様な楽曲展開を行うようになった。2007年にはキングレコードからリリースされたシングルの収録曲を網羅したシングル・コレクションも発売されている[13]。またセールスやライブ動員数が緩やかに上昇する中で、DVDなどの映像作品やバンドスコアなどの書籍の発売も積極的に行うことが可能となった。
近年では多くのファンの声に応え海外でのライブ活動も行っている。2005年にアメリカツアー、2006年にもメキシコシティと全米主要5都市を回るツアーを行い成功を収めるなど、アメリカをはじめとした海外でのthe pillowsの人気はメンバー自身も驚くほどに高いようである[14] [15]。こうした海外での高い評価は、そのほとんどがthe pillowsがテーマソングや挿入歌を提供したガイナックス製作のOVA『フリクリ』の海外での人気とともに得られたものである[16]。
2006年末にはtearbridge productionへ移籍し、レーベルもavex traxに変わった。「キングレコード時代には出来なかったことが色々出来て嬉しい」と山中さわおが語るように[17]、楽曲と映像作品を組み合わせたメディアミックスの試みやライブでの演出など様々なアイデアが実現し、レコード会社の移籍によるメンバーや音楽の変化を不安視する声をよそに[18]セールスやライブ動員の上昇を続けている[2]。