艺人:松任谷由実
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专辑数: 5 歌曲数:53
松任谷由実歌手简介:
松任谷 由実(まつとうや ゆみ、本名も同じ、1954年1月19日 - )は、日本のシンガーソングライター、作曲家、作詞家。(松任谷由美は誤字)。荒井由実(あらい ゆみ)の名で活動していたが、1976年の結婚とともにアーティスト名も改姓。愛称はユーミン (Yuming)。ペンネームは呉田軽穂(くれた かるほ)。匿名性を持って曲を提供する際に用いている。往年の美人映画女優である「グレタ・ガルボ」をもじったものである。東京都八王子市出身。立教女学院高等学校、多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。血液型O型。身長164cm。
ユーミンという愛称は、13歳のころに初恋相手の中国人(ユーミンが中学生当時追っかけをしていた『ザ・フィンガーズ』のC・U・チェン。 1983年刊行の自叙伝『ルージュの伝言』より)につけてもらった(中国には Yuming というポピュラーな名前がある。イオ・ミン・ペイ(貝聿銘)など)。
夫はアレンジャー、作曲家、音楽プロデューサー、自動車評論家の松任谷正隆。ラジオでは正隆について語る時は「松任谷さん」「うちの旦那さん」「まるまつ」「おとうさん」と呼んでいる。
大事件
荒井由実時代
1954年1月19日、東京都八王子市の創業95年(2007年現在)の老舗呉服店(荒井呉服店)に、二男二女の第三子(二女)として生まれる。中学時代に 港区・麻布台(飯倉)のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていた。後に同レストランに集まったアーティストから、アルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。
14歳のとき、プロとしての初めての仕事でスタジオでのピアノ演奏をした。以後、スタジオで演奏をしながらオリジナルの曲を書き、1971年に17歳で作曲家としてデビュー。作品名は加橋かつみ(元ザ・タイガース)に提供した『愛は突然に…』であった。前述のように実家が呉服屋であったために染色の専攻を志し、東京藝術大学を受験するが1972年4月に多摩美術大学に入学。初めは作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル『返事はいらない』で荒井由実としてデビュー。同シングルはほとんど売れず、後に幻のデビューシングルと呼ばれるようになる。1973年11月にファーストアルバム『ひこうき雲』を発売、TBSラジオの深夜放送番組「パックインミュージック」金曜日第2部を担当していたパーソナリティの林美雄の絶大な支持を受けて知名度が上がり、翌1974年より本格的にステージ活動を開始する。
1975年10月発売のシングル『あの日にかえりたい』(TBSドラマ「家庭の秘密」主題歌)が、初のオリコンチャート1位を獲得(それ以前にもバンバンへの提供曲の『「いちご白書」をもう一度』が1位を獲得している)、1976年の年間シングル売り上げチャート10位のヒットとなり、第一次ブームを迎える。さらにこの年には、年間アルバム売り上げチャートTOP10に、旧譜を含む3枚のアルバムがランクインするという快挙を成し遂げた。
彼女が活動を始めた時期は、自作自演を行う人の中からアメリカやイギリスの1960年代の音楽に深く影響を受けた、フォーク(後にニューミュージック)と呼ばれるジャンルの音楽を志向する人々が増えてきた頃にあたり、彼女は女性としてはその草分け的存在の一人であると言える。初期の頃の作風は楽曲的にはフォークソングの系譜を受けつぎながらも詞に関しては従来型のフォークソングが「四畳半フォーク」等と揶揄されていたほど生活観や生々しい恋愛描写に満ち溢れていたものであったのに対し彼女の作品はそうした生活観を直接的にさらけ出した表現を避け、叙情を重視した詩的な歌詞であった為に話題を呼んだ。また歌詞に東京近郊の名所を盛り込むなど都会的なセンスを兼ね備えていた点も評価されていた。
松任谷由実時代
1975年12月にアレンジャーの松任谷正隆と婚約、1976年11月29日に横浜山手教会にて結婚、松任谷由実となる。本人には引退する考えもあったようだが、結婚後も途切れず音楽活動を続行。1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースするなど、ブレッド&バター・松田聖子・小林麻美などに楽曲提供をしながらもハイペースで曲を製作。『埠頭を渡る風』『DESTINY』『恋人がサンタクロース』『カンナ8号線』『真珠のピアス』『ダンデライオン』などはこの頃作られた。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立。この分野においても草分け的存在の一人である。
1981年6月のシングル『守ってあげたい』(薬師丸ひろ子主演映画「ねらわれた学園」の主題歌)が1981年年間シングル売り上げチャート10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』以降のオリジナルアルバムは17枚連続でオリコン1位を獲得、1988年のアルバム『Delight Slight Light KISS』以降は8枚連続のミリオンセラーを連発。
彼女が始めた“見せる”ステージは、1978年自転車に乗って登場する『大衆的時事歌劇』に始まり、本物の象が出た『OLIVE』・マジックを取り入れた『MAGICAL PUMPKIN』・エレベータを設置した『BROWN'S HOTEL』・噴水ショー『SURF & SNOW』・30メートルの竜に乗った『水の中のASIAへ』など年々エスカレート。億単位の金をかけ、内外の最新技術を積極的に取り入れた、コンサートの枠を超えた新たな一大エンターテイメントになっていった。当時のインタビューでも、「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれ、1980年代はまさにユーミンの時代だった。「中産階級の手に届く夢」を歌って時代の波に乗ったユーミンだったが、1990年代に入ると精神世界や民族的な音楽に着目。『満月のフォーチュン』『DAWN PURPLE』『真夏の夜の夢』『春よ、来い』『輪舞曲』などを生み出す。
1996年、旧姓荒井由実の名で活動を行う。セルフカバーシングル『まちぶせ』を発売。また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、「Yumi Arai The Concert with old Friends」を開催した。このライブアルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数ヶ月遅れた。これ以降、日本の恒例行事とまで呼ばれたサイクル(冬のアルバム発売~夏までツアー)が若干緩やかになったが、「カリスマはもういい。これからは好きな音楽をやる」と宣言した彼女は、以後も精力的に作品を制作。ステージはますます大掛かりになり、1999年・2003年にはロシアのサーカスチームとコラボレートした制作費50億円のコンサート「シャングリラ」を開催。前代未聞の興行として話題になる。2007年にはシリーズ最後を飾る「シャングリラIII」を開催。
2009年、2月5日から16日まで恒例の苗場コンサートを開催。インターネットでもライブを配信。ニューアルバムをリリース後は、4月10日から9月29日まで全国コンサートツアーを開催。
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