小田和正歌手简介:
神奈川県横浜市金沢区出身。
金沢文庫すずらん通り商店街にある小田薬局で次男として育つ。横須賀中央のバイオリン教室に通っていた。実父はすずらん通り商店街の基礎を築き藍綬褒章受賞。
関東学院六浦小学校 - 横浜市立八景小学校 - 聖光学院中学校・高等学校 - 東北大学工学部建築学科 - 早稲田大学大学院理工学研究科(建築学専攻、池原義郎研究室)修士課程修了。
建築家の藤森照信は学部時代からの友人。
1969年 11月2日 第3回「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」(LMC)全国グランプリ大会(新宿厚生年金会館大ホール)に東北代表として出場し赤い鳥に次いで、第2位となり、最優秀歌唱賞を受賞する。
古今亭志ん生のファンである。
小简介
将来、建築家を目指していた小田は高校時代から同級生らと続けてきたフォークグループ「ジ・オフ・コース」のアマチュア音楽活動の有終の美を飾るべく、自信をもって臨んだ「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」で不本意にも2位になったことで、「オフコース」として、プロの道を歩み出すことになる。
数年間は売れない時代が続いたが、やがて、1970年代から1980年代にかけて、次々とヒット曲を生み出し、時代を代表する人気グループとなった。オフコース時代のシングルのA面のほとんどは小田の曲であり、そのシンプルで、ストレートに愛を歌う歌詞とハイトーンの澄んだボーカルはオフコースの大きな特色であった。オフコース時代のヒット曲には「さよなら」「Yes-No」「君が、嘘を、ついた」などがある。
オフコース時代から、ソロ活動は始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後に活動を本格化させる。特に、1991年のトレンディドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌『ラブ・ストーリーは突然に』が大ヒットし、オフコース時代にも達成できなかった「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルのミリオンセラー」の達成を一挙に成し遂げ、それ以降の曲もヒットを重ねている。
CMとのタイアップや、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーションも行うようになった。また、初めて持ったテレビのレギュラー番組は大変な反響を呼んだ。また、音楽以外の分野では映画やドキュメンタリーの制作なども行った。
大事件
オフコース時代
詳細はオフコースを参照
1970年 「ジ・オフ・コース」というグループ名でシングル『群衆の中で』(作詞:山上路夫・作曲:BETTY DEAN・編曲:馬飼野俊一)でデビュー。
1973年、初めて自身の作詞・作曲した曲、『僕の贈りもの』がシングルとしてリリースされる。この曲からグループ名が「オフ・コース」になる。
その後オフコースとして数々のシングルやアルバムを発売するも、なかなか売れない時代が続いた。当時は時代的に思想的なメッセージ性の強い曲が受けていたので、オフコースのようなストレートに愛を歌うグループは冷ややかに見られ、客席から「帰れ!」とブーイングされたこともあったという。
同じ事務所の杉田二郎のバーター(知名度を上げるため、事務所の先輩の出演する番組に抱き合わせで出演)としての活動が多く、ラジオのDJもやっていたが、受けなくて苦痛だったという。
当時、大人気だったかぐや姫や井上陽水の活躍を横目に辛い時期を過ごしていた。しかし、地道にコンサート活動を続けてきた結果、徐々に『眠れぬ夜』、『秋の気配』、『愛を止めないで』とスマッシュヒットを重ね、1979年12月に発売されたシングル『さよなら』(小田和正 作詞・作曲)が72万枚(オリコン最高位2位)の大ヒット、一躍人気ニューミュージックバンドとなった。
シングルA面は主に小田が手掛けており、『Yes-No』、『I LOVE YOU』、『YES-YES-YES』、『言葉にできない』、『君が、嘘を、ついた』、『君住む街へ』などのヒット曲を生み出す。
1981年 11月23日 NHK教育テレビのドキュメンタリー番組『若い広場』でオフコースとして初めてのテレビ出演。
1982年
1月22日~6月30日まで、「Off course Concert 1982 “over”」 全国28ヶ所69回公演の全国ツアーを行う。
9月3日、ファンクラブの手伝いをしていた女性と結婚。
ソロ活動の成功
オフコース在籍中の1985年に、松任谷由実・財津和夫との共作でリリースしたシングル『今だから』がヒット。翌1986年にシングル『1985』でソロデビュー。1989年、オフコース解散と同時にソロ活動を本格化させる。
1991年、フジテレビ月9ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲『ラブ・ストーリーは突然に』が、ドラマと見事なコラボレーションを成し、ドラマ・主題歌共に大ヒット。オフコース時代に叶わなかった、「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルミリオンセラー突破」を一挙に成し遂げた。
その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、『伝えたいことがあるんだ』、『キラキラ』、『まっ白』などのヒット曲を生み出している。
またオフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したアルバム『LOOKING BACK』『LOOKING BACK 2』や『自己ベスト』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなり、改めて小田サウンドの力を見せつけた。
2005年にはオリジナルアルバム『そうかな』、2007年にはシングル『こころ』で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。とかく過去の楽曲が注目・起用されがちな日本の同世代アーティストの中で、新曲で音楽シーンに存在感を示すことができる貴重な存在となっている。
レコード・CDセールスの記録
1985年 シングル『今だから』(松任谷由実・小田和正・財津和夫共作) - 「オリコン シングルチャート1位」獲得は、小田の音楽キャリア史上初。売上げ36.5万枚
1991年 シングル 『Oh! Yeah!/ラブ・ストーリーは突然に』 - 「オリコン シングルチャート週間1位」「年間シングルチャート1位」ソロで初の1位獲得、270万枚を売り上げ、ソロでの44歳3ヶ月最年長記録によるダブルミリオンを獲得し、当時のシングルCD・レコード売上枚数記録史上、過去最高記録、達成。
2001年 アルバム 『LOOKING BACK 2』 - 「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録」 53歳8ヶ月 (それまでの同記録は井上陽水『GOLDEN BEST』1999年7月 51歳0カ月)
2002年 アルバム 『自己ベスト』 - 「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録(自己記録更新)」 54歳8ヶ月←53歳8ヶ月
2004年『自己ベスト』 - 「オリコン アルバム売上200万枚突破 最年長記録」57歳3ヶ月 (それまでの同記録は松任谷由実『Neue Musik(ノイエ・ムジーク)』1998年11月 44歳10カ月)、「男性ソロアーティスト アルバム200万枚突破 史上2人目達成」 (同年12月、初記録は河村隆一『Love』1997年12月)
2005年6月 アルバム 『そうかな』 - 「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録(自己記録更新)」 57歳9ヶ月←54歳8ヶ月
2007年8月 シングル 『こころ』 - 「オリコン シングルチャート週間1位獲得 最年長記録」 59歳11ヶ月 (それまでの同記録は石原裕次郎『北の旅人』1987年8月 52歳7カ月)
2007年12月 アルバム 『自己ベスト-2』 - 「オリコン アルバムチャート週間1位獲得 最年長記録(自己記録更新)」 60歳3ヶ月←57歳9ヶ月、60代での1位獲得・30代から60代すべての年代でアルバムチャート1位獲得ともに史上初。
※2007年12月現在、オリコンチャート週間1位の最年長記録は、アルバム・シングル共に小田和正が有している。
プロデュースやコラボレーション
ソロになった1989年以降、他のアーティストとの交流が急速に活発化する。
ソングライターとして鈴木雅之、中村雅俊、島倉千代子や松たか子らの楽曲を全面的にプロデュースする他、ASKAや佐藤竹善らとコラボレーションする。
また、チャリティ目的のコラボレーショングループUSED TO BE A CHILDの主催、泉谷しげるらとのチャリティライブ、スターダストレビュー、CHAGE and ASKA等とのジョイントライブや音楽イベントに積極的に参加するようになった。
小田自身のソロライブでも、コーラスに安部恭弘、佐藤竹善、山本潤子、加藤いづみらを起用している。
映画監督としての活動
中学生時代に見た映画『ティファニーで朝食を』の主題歌でヘンリー・マンシーニ作曲の『ムーン・リバー』に大変感動し、初めてレコードを買い、「将来こんな素敵な仕事ができたら」と思っていた。音楽と映像を融合させた表現にはオフコース時代から積極的に取り組んでおり、当時としては珍しい、楽曲のビデオクリップ制作などに注力していた。
1992年、最初の映画監督作品となる『いつか どこかで』を発表。全国ロードショウされたが、映画評論家には不評を買い、セールス的にも成功とはいえなかった。アルバム『sometime somewhere』はこの映画のサウンドトラック的存在として作られた。
1997年、一作目の映画製作時の体験を元に、監督第二作目となる『緑の街』を制作、発表した。この作品は映画会社配給ではなく、全国のホールなどに上映機材を持ち込んで上映をしていく「シネマ・ツアー」という公開形式をとった。「歌手である主人公が映画製作を果たす」というストーリーが、実体験を元にさわやかな感覚で描かれており好評を得た。
折に触れ、第三作の映画にとりかかるという話は聞かれるが、2007年3月現在、具体的な話は始まっていないようである。
ファンへむけた活動
Far East Café という名のカフェを経営している。カフェでは飲み物はもちろん、ファン向けの様々なサービスが提供され、小田和正グッズも販売されている。また、ファン向けに『Far East Café Press』という会報を毎月発行しており、日々の活動などが伝えられている。1995年からは、毎年の活動をまとめたビデオ「LIFE-SIZE」を、Press購読会員限定で発売している(現在はDVDで発売)。
声について
女声域までの高音をファルセットを使わず素直に出せる澄んだ歌声が大きな特徴で、天性のものと言うほかない。オフコース初期には、バンドに女性ボーカルがいると間違われることもしばしばだったという。少年のような歌声に、変声期を経ずに成長したのではとの見方もあり、自身も音楽評論家の小貫信昭のインタービュー本『たしかなこと』で「変声期があった記憶がないので、声変わりしていないと思う」との旨を述べているが、2005年のコンサート中のMCにて「医者に尋ねてみたが、声変わりしていないという事は有り得ないそうだ」と、その認識に変化があった様子を伺わせた(発声が生来しっかりしていたため、声変わりしても元の音域で話せたせいで、声変わりに気づかなかっただけという可能性が指摘されている)。話す声はわりあい低く聞こえ、歌声とのギャップが大きいと感じる人が多く、「どうしたら高い声で歌えるのか」という質問をよくされるが、それに対しては「僕はただシャウトしているだけ」と答えている。東北大学時代は混声合唱団でテノールを担当していた。
混声合唱団では、男性高音パートを受け持つテノールのパート・リーダーを務めた。声楽の褒め言葉として、「テノールのようなアルト」、「アルトのようなテノール」という表現があるが、小田和正の声はまさに後者にあたる。因みにアルトは女声の低音パートを受け持つ。 小田和正は「声変わり」していないという俗説があるが、声変わりした男性の声は女声より確実に1オクターブ低くなる。ウィーン少年合唱団の声は女声と同じ音域であるが小田和正の話声は女声より1オクターブ低く声変わり後の男声である。ただ、小田和正の歌声の発声領域は、「ヘ音記号」楽譜の下のソ音(G)付近から「ト音記号」楽譜の上のレ音(D)付近までである。つまり、小田和正は女性の声域のさらに下に1オクターブ追加された声域ということになる。男声として高域の伸びと声の質が小田和正の天性の魅力となっている。その発声は所謂、音の揺らぎ-ビブラート-の少ないフラットな澄んだ声であることとと、音程の正しさも小田和正の高域の声の美しい印象を高めている。
交通事故
1998年7月22日夜、愛車セルシオを自身で運転して事務所・関係者らとの恒例行事「DEATH MATCH」(ゴルフコンペ)開催のゴルフ場へ向かうため、栃木県都賀町の東北自動車道下り線を走行中、自損事故を起こし、全治4週間の重傷を負う。現場付近は雨が降っており、80キロの速度規制が出されていたところを、約20キロオーバーの100キロ前後で走行しており、スリップしてコントロールを失い、ガードロープに接触した。その衝撃で後部座席に飛ばされ、後部座席で横たわった形で救出される。車は大破。同乗者はいなかった。幸いにも、後続車による追突や、横転、反対車線への飛び出しといったことがなかったため、九死に一生を得る。約2週間の入院を経た後奇跡的な回復を見せ、同年9月12日、福岡県にある「海の中道」で行われた、スターダスト・レビューとのジョイントコンサートで、完治していない不自由な体ながらも見事に歌手活動に復帰した。