艺人:EXILE ATSUSHI
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专辑数: 1 歌曲数:15
EXILE ATSUSHI歌手简介:
HIRO(ヒロ、本名:五十嵐広行(いがらし ひろゆき)、神奈川県横浜市(生まれは広島)、1969年6月1日 - 血液型:AB、身長174cm、体重63kg)
パフォーマー兼リーダーで、所属事務所LDHの社長。所属アーティストのマネジメントからダンススクール、アパレルブランドの運営まで、ビジネスの舵取りを担う。
元ZOOのメンバー。15歳にしてディスコに足を踏み入れ、そこで初めて見た黒人のダンスに魅せられ、ダンスの道へと導かれることとなる。横浜市立金沢高等学校出身。現AVEX社長の松浦勝人は高校の先輩にあたり、松浦が当時、店長をしていた貸しレコード屋にHIROが足を運んではレコードを借り、高校の文化祭の時にDJを頼んでやってもらっていたという。高校卒業後、1989年にテレビ番組「DADA」のダンスコンテストでLMDに参加した。結果、HIROは準優勝を飾りそのコンテストを観ていたスカウトに声を掛けられ、1990年にLMD改めZOOとしてシングル「Careless Dance」でデビュー。ZOOは一気にスターダムへと駆け上がった。しかし解散後の1996年に女性ボーカルとHIROを含めた二人のダンサーからなるユニット、「LUV DELUXE」を結成するも間もなく解散。1995、6年にはDREAMS COME TRUEのコンサートツアーにバックダンサーとして参加していた。また、ニュー・エディションのベル・ビヴ・デヴォーやボビー・ブラウンにダンスを認められ踊った事もある。吉田美和の「お客さんは自分のお金でライブに来てくれるのだから心を込めて一生懸命やろう」という言葉がHIROに自身の慢心を悟らせるキッカケになったという。そこで自身が変わっていく決心を固めたという。そんな中で現パフォーマーたちと出会い、貧乏でも一生懸命ダンスに打ち込み、自分に付いて来てくれる彼らのためにも今の状況を変えたいと思い、「もう一度ダンスで勝負がしたい」と頭を下げ、何度も頼み込んだ結果、J Soul Brothersとしてデビューするチャンスを松浦勝人から与えられ、アルバイトとして、AVEXからデビューする前の卵たちのレッスンも任された。HIRO自身、「松浦さんは人生の恩人。松浦さんがいなかったらJSBもEXILEもなかった」と話している。
会社を設立するに至って、「ZOOの時にはいくつもの可能性があった。でも俺はそれを活かすことすらできなかった。本当に惨めで悔しい思いもしたし、自分自身の力でもう一度武道館に立ちたい。Your eyes onlyでEXILEとして、初めてテレビに出た時、テレビの出演がこんなに嬉しいことだと思ったのは初めてだった。今こそ自分たちの夢を一つ一つ叶えていくチャンスが来た。今こそ会社を作ろう」と決心し、メンバー6人で50万ずつを出資し、青山のビルの地下に有限会社エグザイルエンターテイメントを設立。HIROに会社を作るよう提言したのも松浦である。
同事務所の佐田真由美と交際していたが、2007年3月に破局していたことが明らかとなった。
2005年の1月25日に自身が書いた「Bボーイサラリーマン」を出版。7月、自身の経歴を綴ったDVDを発売した(『HIRO ZOO→JSB→EXILE』)。
「THE COVER MAGAZINE」を連載中。
以前はヘビースモーカーだったが、J Soul Brothers時代にダンスの練習中に「煙草止めないと死ぬかも」と感じ、止めたという。
「いつ休んでるんだろうと思う位、俺たちのことと、EXILEのことを考えてくれている。寝ている時も考えているんじゃないかっていう位。もうデビューしてからロクに休みを取ってないだろう。感謝してもし切れない位」と言わしめる程の仕事人でもある。また、メンバーに対して怒る人物ではないという。「怒ったって、自分で感じてみないと分からないこともある。だから俺はよほどのことがない限りメンバーに口出ししない」というポリシーを貫いている。脱退したSHUNも「HIROさんにはなぜか甘えられる。あれだけの器のでかい人はそうそういるもんじゃない」と話していた。
SHUN脱退後はATSUSHI1人で行くかどうか悩みに悩んだと言うが、最終的にはHIROの「一般からボーカルを募集しよう」という一言でオーディションを主催することになった。その理由としてHIROは「夢を持った人たちにいいきっかけを作れる場所を提供できたらいいし、ミリオンアーティストがオーディションやるっていうのもEXILEのエンターテイメントとしてのインパクトも強いと思った」と話している。
MATSU(マツ、本名:松本利夫(まつもと としお)、神奈川県川崎市、1975年5月27日 - 血液型:O、身長170cm、体重58kg)
HIROに影響され、ダンスは16歳のときに出会い、18歳のとき本格的に始めた。1996年、ダンスチーム「BABY NAIL」結成。1998年、「JAPANESE SOUL BROTHERS」加入後「J Soul Brothers」のメンバーとなる。
2005年、東京・中目黒にブランドショップLMD(現・24karats)を立ち上げ、デザイナーを兼務。4thアルバム『ASIA』収録の「Why oh why…?」では初の作詞を手がける。
2007年1月5日深夜にフジテレビで放送された「EXILE〜6年目の真実」の番組内で難病指定を受けている不全型ベーチェット病に侵されていることを告白し、左目の視力をほとんど失っていることを明らかにした。母親曰く、高校時代からべーチェット病だったという。メンバーも第一章の時から、MATSUがベーチェット病に侵されていることは知っていたが、左目がほとんど見えなくなるほど重くなっていたとはMATSU自身の口から告げられるまで知らなかったという。疲労が溜まると病状が悪化し、熱が出て、動けなくなる位になる。そうなると3日位は寝込まなければ治らないと話している。HIROはMATSUと話し合い、今後の選択をMATSU自身に任せた。MATSUは悩みに悩んだが、HIROに「EXILE続けます。たとえ失明したとしても後悔はないです」と言ったという。MATSU自身も「この病気を持っている自分の姿を見せることによって、自分と同じ病気を持っている人やその他の人たちに勇気を与えられたらと思いますし、自分の使命でもあると思ってます」と話していた。
2007年のツアーの初日の前日に父親を亡くしたが、当日はステージに立った。亡くなる二日前に川崎の実家に訪れた際、指輪をもらった。MATSUはツアー中にその指輪をはめてステージに立っていた。
NORTH WAVE 82.5FMのラジオ番組「SESSIONS FOUR」の水曜日担当をAKIRAと共に努めている。
2005年9月に自身の単行本「Love Music Dance」を発売した。また、FLOOR netにて「MATSU (EXILE)の"Love Music Dance"」を連載中。
以前は喫煙者だったが、今は非喫煙者である。
USA(ウサ、本名:宇佐美吉啓(うさみ よしひろ)、神奈川県横浜市、1977年2月2日 - 血液型:AB、身長177cm、体重65kg)
「BABY NAIL」加入後、「JAPANESE SOUL BROTHERS」加入。「J Soul Brothers」のメンバーとなる。EXILEでの活動と並行して、2005年にはメンバーであるMAKIDAIと共に、ラップグループ「RATHER UNIQUE」を結成し、MCを務める。
現在居酒屋を経営している父親はかつてディスコで「ファンキー・サミー」と呼ばれたほどの人物で、EXILEのリミックス・アルバムのCMに出演し、EXILEとともに歌番組に登場しダンスを披露したこともある。桜塚やっくんの同級生であり、中学時代は、共にサッカー部に所属していた。スピードワゴンの井戸田潤はアルバイト先の先輩でもある(2006年12月4日放送「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」より)。
ダンスのテクニックはEXILEでナンバー1だと言われている。DOBERMAN INC.のTOMOGENも「クラブで踊ってるダチに聞いたら、USA君が一番ウマいゆうてました」と「Evolution.D」で話していた。
2006年から毎週木曜にInter FM76.1MHzのラジオ番組「Evolution.D」の司会を務めている。
雑誌『DANCE STYLE』にて『USA STYLE』を連載中。『DANCE EARTH』2008年10月10日好評発売中。
MAKIDAI(マキダイ、本名:眞木大輔(まき だいすけ)、神奈川県横浜市、1975年10月27日 - 血液型:O、身長180cm、体重65kg)
中学3年生のときの文化祭にてダンスに目覚める。10代の頃から「アンダーグラウンド・ストリート・キッズ」というグループを結成し、都内の駅前で踊っていたという。HIRO曰く、「BABY NAILイチのダークホース」。ZOOのメンバーが講師をしていたダンススタジオの生徒で、高校生の時からよくクラブやディスコに出入りする。神奈川大学経済学部貿易学科に入学するも2年で中退。1996年、MATSUと共に「BABY NAIL」を結成、アメリカのニューヨークへ留学しダンスの修養を積む。アメリカのクラブで黒人のダンスを見て、強い影響を受けたという。MISIAのバックダンサーを務めたり「つつみ込むように…」のPVにダンサーとして出演している。1998年、ダンスチーム「Hip Hop Junkeez」を結成。1999年、「J Soul Brothers」に加入し現在に至る。当初、HIROが「J Soul Brothers」を結成するために「BABY NAIL」に声を掛けたメンバーはMAKIDAIではなくRYUJIというダンサーだったが、RYUJIが事情があって抜けなくてはならなくなり、MATSUがMAKIDAIに声を掛けたことで加入が決定した。
最初に観たライブがNHKホールで行われたZOOのライブだという。
2004年には本名でドラマ「ホットマン2」に俳優として出演し、2007年3月公開の映画「渋谷区円山町」では主演を務める、その他は恋のから騒ぎ 〜Love StoriesⅤ〜「金星から来た女」(2008年10月10日、日本テレビ系)。バラエティ番組に本名で時々出演している。2005年にはメンバーであるUSAと共にRATHER UNIQUEを結成し、MC兼リーダーを務める。この時期に同事務所のモデル、長谷川潤との交際が報じられたが、2008年に破局していたことが明らかとなった。
Hip Hop/R&Bに精通しており、クラブDJとしての顔も持ち、MIX CDも発売した。2005年からはJ-WAVEのラジオ番組「OH!MY RADIO」の月曜日担当を務めている。
ブレイク系のダンスを得意とする。以前、岡村隆史とブレイク対決をしたこともある。
ニューヨークに渡っていた頃、語学学校に行っていたため、英語が堪能である。エグザムライでも少しだが、英語を披露する場面があった。Black Eyed PeasのFergieやWill I Am、R&BシンガーのUsher、Anerieとも親交がある。
以前、野良犬を拾って保護したこともあるというように、温和な性格である。
DJ MAKIDAI名義で初となるミックスCD「Treasure Mix」をリリースした。
AKIRA(アキラ、本名:黒澤良平(くろさわ りょうへい)、静岡県磐田市、1981年8月23日 - 血液型:A、身長184cm、体重74kg)
HIROに憧れ、16歳からダンスを始める。RATHER UNIQUEの元メンバー(USAとMAKIDAIとは違い、パフォーマーとして務めていた)。RAG POUNDにも所属している。長い手足を使ったパントマイム系のダンスを得意としている。渋谷のクラブで踊っていた時にそれを偶然見ていたMAKIDAIとUSAの目にとまり、「Rather Unique」のパフォーマーとして加入した。その後第二章開幕にあたり2006年6月、メンバーに誘われEXILEに加入する。
MAKIDAIとUSAが初めてAKIRAに会った時、MAKIDAIとUSAはAKIRAのことを黒人だと思い英語で声を掛けたという。当時を振り返ってAKIRA自身も自分が黒人だと思いこんでいたと述べている。1995年に観たSMAPのライブでの岡村隆史のダンスに強い影響を受けたという。
NORTH WAVE 82.5FMのラジオ番組「SESSIONS FOUR」の水曜日担当をMATSUと共に努めている。
2008年、TBS系「Around40〜注文の多いオンナたち〜」でドラマ、「花より男子F」で映画デビューを果たした。
本名ではなく「AKIRA」となったのは「クロサワといえばアキラ(黒澤明)」と言われたため。
女優の長澤まさみは小学校の後輩にあたる[2]。
他メンバーの立ち位置は変わらず(HIROとUSAは正面から見て右側、MATSUとMAKIDAIは正面から見て左側)、AKIRAは新たにヴォーカル二人の間の少し後ろがポジションとなった。
ヴォーカル
ATSUSHI(アツシ、本名:佐藤篤志(さとう あつし)、埼玉県越谷市、1980年4月30日 - 血液型:A、身長175cm、体重67kg)
4歳より高校卒業時までクラシックピアノを習う。高校在学中にボーカルとして誘われて組んだバンドがきっかけでヴォーカリストを志すようになる。元々は父親が普段からギターを片手に歌っていたことにも影響を受けたという。高校卒業後、専門学校(ESPミュージカルアカデミー)でヴォーカリストとしての技術を磨く。在学中に何度かオーディションを経験し、2000年にテレビ番組「ASAYAN」主催の男子ヴォーカリストオーディションで最終選考まで残る。しかし、「これから伸びていくであろうシンガーを発掘する」という主催者側のコンセプトに合わず落選。このとき優勝したのがケミストリーである。オーディション落選後、半年間、渋谷のクラブなどで歌う生活を送っていたが、ATSUSHIの存在を知ったHIROからコンタクトがあり、結果として2001年にEXILEの前身「J Soul Brothers」へ加入することとなる。なお、この時点では1ヴォーカル・4パフォーマーとなる予定であった。
EXILEにとって唯一無二のヴォーカルであると同時に、看板を背負っている。メンバーは「ATSUSHIの声は俺たちの夢」と話している。ジムに通う以外に空手を習い、心身を鍛えていると話していた。
2004年12月、EXILEでの活動と並行して4人組コーラスグループ「COLOR」を結成(2006年12月にメンバーチェンジし自身は脱退、プロデュースに専念)。多くの楽曲を提供している。
坊主頭にサングラスがトレードマーク(2003年5月頃までは坊主頭ではなかった)。坊主にした理由として、格好をつける自分に嫌気がさしたからと述べている。また、髪型を気にしなくて済むからとも話している。サングラスをかけていた理由については、最初「ストレスで顔がむくんだこともあったからそれを隠すため」と話していたこともあった。
愛用のサングラスはデリーゴ社(イタリア)の「POLICE」ブランド。2008年9月には同社と契約を結び、POLICEブランドの日本のイメージキャラクターとなり、11月にATSUSHIモデルが発売される予定。
2005年の終わり頃から喉の酷使により、ポリープを患い、SHUN脱退後から第二章開幕の間に手術を受ける。ATSUSHIはその他にもSHUNの口から辞めると告げられた時不安に苛まれ、酒を飲まなくては寝れない日々が続いたらしく、二日酔いの状態のままステージに立っていたことも原因の一つだろうと語っている。入院中、様々なことを考える時間が出来たため、「Giver」や「Yell」といった曲の歌詞を書いたりしていたという。また、この出来事を通じて、「歌うことの喜びを強く感じるようになった」と話しているように、自身を大きく変える出来事となったという。
久保田利伸を尊敬しており、2007年3月9日には多数の邦楽歌手が集結した「MTV iCON 久保田利伸 powered by 楽天オーディション」で共演。日本初のi CONに選ばれた久保田利伸と共演、「Indigo Waltz」を披露した。ATSUSHIはASAYANでも、同氏の「Missing」や「Cymbals」を歌っている。なお、「Cymbals」は久保田利伸のトリビュートアルバムで「ATSUSHI from EXILE」として、カバーしている。
第二章としてのCDのリリース前に、2006年10月に憧れていたBoyz Ⅱ Menと競演を果たす。Boyz Ⅱ Menのウォンヤは「ヴォーカルディレクションでも全く直す所がなかったよ」と絶賛していた。
右胸のタトゥーは『i'm gentle and convey true love』と彫ってある。背中には「EVOLUTION」と掘られている。右腕には19歳の時に入れた、平和の象徴となるバッファロー。ATSUSHI自身、「タトゥーは見せびらかすために入れたんじゃなくて、何かに逃げたくなったり後戻りしたくなった時、支えてくれるものが欲しかった。それがこのタトゥーで、音楽で生きていこうという自分自身への誓いを立てるために入れた」と話している。
第一章の時は自分が一番年少者だったが、TAKAHIROが入ってきてからそれが変わり、「TAKAHIROを引っ張っていかなくてはいけない」という意味でも責任感が出てきたと話している。
viviにて、「ATSUSHIのJAM SESSION」を連載中。
喫煙は、止めてはまた吸い始めることを繰り返していたが、HIROの「ATSUSHIが吸うんなら俺も吸うぞ」という一言で喫煙を止めたという。
「ESPミュージカルアカデミー」ではATSUSHIが学校のポスターの表紙となっている。
総制作期間8年を費やし、日中ボランティア団体が作り上げた、日中合作映画「純愛」のためにノーギャラで詞・作曲共に自身で作り上げた「INORI」を提供している。リリースの予定は今のところないらしく、「もし出ることになるならば、損得が関わらない形で出したいと思う」と話している。
TAKAHIRO(タカヒロ、本名:田﨑敬浩(たさき たかひろ)、長崎県佐世保市 、1984年12月8日 - 血液型:O、身長180cm、体重63kg)
沖縄空手を12年やり(日本武道館の全国大会に団体戦で出場、5位入賞)有段者。両親の後を継ぐために福岡県美容専門学校を卒業後、美容室「MINX」で見習いをしていた時期もある。雑誌でカットモデルをしていた経験も有り。特技は空手(初段)、書道(八段)、絵画と演歌を好み、20歳の頃から、よく演歌(主に前川清、五木ひろし)を聴きながら晩酌すると述べている。
友人に誘われ同伴した2005年のツアーで、「運命のヒト」を聴き、深く感銘を受ける。その日をキッカケに友人から「EXILE狂い」と呼ばれ、「家で聴く音楽も、カラオケで歌う曲も全てEXILE。それ以外で聴いていたのは演歌だけ」だと言う程、EXILEの大ファンとなると同時に歌手への道を志すようになる。父親の「人生は一度しかない、やりたいことをやれ」という一言で美容院を辞め、肉体労働で金を稼ぎ、夜にレッスンに通うようになる。SHUNの脱退に伴うオーディション「EXILE Vocal Battle Audition 2006〜ASIAN DREAM〜」の開催を知り、東京会場から参加して勝ち上がり、2006年9月22日、日本武道館における最終審査を制し、新ヴォーカリスト・7人目のメンバーとしてEXILEに加入した。
同年7月10日放送の日本テレビのオーディション番組「歌スタ!!」ではメインコーナーである「廻る!運命のうたちだい」でEXILEの「運命のヒト」を歌って合格し、作曲家林哲司から曲の提供を受けメジャーデビューすることになっていたが、その後林のHPにて、経緯の詳細は伏せられているが曲提供の件が破談になったと発表されている。この件について「歌手になりたい、というより、EXILEになりたかった」とコメントしている。
同年8月3日よりミュージカル・テニスの王子様にも海堂薫役として出演する予定となっており、公式HP上及び関連誌上でもコメント掲載などが行われていたが、7月24日に急遽「体調不良」を理由に降板を発表し、7月30日、「EXILE Vocal Battle Audition 2006」の一次予選東京会場に参戦した。
2007年3月1日、TAKAHIROの母校、長崎県立佐世保東翔高等学校の卒業式にてサプライズライブが行われた。
TAKAHIROを選んだ理由としてメンバーは「とにかく人に接する態度が素晴らしかった。リハーサルを重ねるうちに、彼のパフォーマンスに対する真剣さやEXILEへの想いが伝わってきた。なにより、“人間力”があるというか、“目力”がある。我々の探し求めていた人材だ」という。また、「一番存在感があった。キャラ的にも合ってるし、第二章を進化させるとしたらTAKAHIROしかいないと思った」とも話している。ATSUSHI自身も「礼儀正しくて素直で、レコーディング審査の時に僕の声と重なった時、言葉に出来ない良さを感じました」と話している。また、当時放送していた「RZTV」で「TAKAHIROの歌を聴いた時、彼と共に歩んでいく未来を予感した」と話していた。決める時は全員一致でTAKAHIROに決めたという。TAKAHIROも「頭がおかしくなりそうな位嬉しいです。1万人分の責任を持って、『こいつなら仕方ないな』と言われる位に頑張りたい」と話していた。
SHUN(シュン、本名:清木場俊介(きよきば しゅんすけ)、山口県宇部市、1980年1月11日 - 血液型:O、身長173cm、体重63kg)
幼い頃に父親の影響で尾崎豊と、長渕剛の曲に触れ音楽への道を志すようになり、中学生の頃から地元である山口でバンド活動、ギターの弾き語りを行う。中学生の頃に、教師に「とりあえず座っているだけでいいから授業に出ろ」と言われ、「ただ座ってるだけじゃつまらないから」と詞を書き始めていた。高校1年の時、兄のことを侮辱した教員を暴行し、退学になった。高校中退後はトビ、鍛冶屋、大工等のバイトに携わる。持っている資格は危険物取扱者丙種、車両系建設機械運転技能講習。19歳頃に建設関連の会社を設立。会社の社長として働く一方で、仕事が終われば詞を書き溜め、休みの日は路上で語り弾きをしていた。その頃ATSUSHI同様「ASAYAN」の男子ヴォーカリストオーディションを受け、第3次審査まで進むも審査員の態度に腹を立て辞退。その後、最後の覚悟の上、地元テレビ局のボーカルオーディションを受け優勝、偶然その場に居合わせたavex社員の目に止まる。その後、HIROはATSUSHIとSHUNに「レコーディングやるから」と言って、急遽行った「Your Eyes Only」の英語版のレコーディングの時に初めてSHUNの歌を聞き、一発で惚れ込んだという。こうして、1ボーカル・4パフォーマーで行く予定だったが、ボーカルは二人となり、J Soul Brothersの「SHUN」としてデビューすることとなった。
音楽学校で音楽を学び、レッスンを受けてきたATSUSHIとは逆に、ストリートの世界で歌い続け、独学で歌を身につけたボーカルである。ただ、ボイトレはやっていたようだが長続きしなかったという。HIROに出会うまでダンスも全く知らず、また初期には音楽性の違いでATSUSHIと衝突したこともあった。ATSUSHIが喉を悪くした時、煙草を吸っていたスタッフに「ATSUSHI、喉悪いんで止めてもらえますか?」と言ったというように、仲間想いの一面もある(ATSUSHIは「6年目の真実」にて、その言葉を思い出して涙していた)。
EXILE在籍中はシングル曲、アルバム曲問わずEXILEの楽曲の作詞を多数手がけた。初期のライブでは想いを伝えることに重点を置き過ぎるため、歌っている途中に泣き出してしまうことがしばしばあった。
ジムが嫌いなようで、ボクシングをして体を鍛えているという。ツアーの際はいつもサンドバッグを持ち歩いていたという。
2005年1月、本名でソロデビュー。EXILEのSHUNとは異なり、ロック路線へ転向している。
2006年3月27日、公式ホームページ上で突如EXILE脱退を発表し、2006年3月29日付で正式脱退。2005年の同時期にメンバーに脱退の意を申し出たという。メンバーも動揺する一方、「いつかSHUNちゃんがEXILEを出て行くであろうことは予想していた」と話していた。脱退後はソロ活動に専念。脱退の動機として「『SHUN』として納得のいく様に唄えなくなった、このままでは自分が自分としてここに居ることが嘘になってしまうと感じた。そんな気持ちのままで歌うのはEXILEのメンバーにもファンにも失礼なことなんじゃないかと思った。ただ、一つだけ言っておきたいのは、EXILEが嫌になったわけでもなければ、単純にソロに集中したいから辞めるわけでもない。自分が自分であるために、貫きたいことを貫くために脱退を決意した」と述べている。2004年ごろには既に悩んでいたようで、HIROが出版した『Bボーイサラリーマン』には、かつてSHUNがスタッフとのトラブルが原因で、ツアーのリハーサルを5日間無断で休んだ後、脱退を申し出たというエピソードが書かれている。毎日jpのインタビューで「僕の中でEXILEとしてできることは完結した。アリーナクラスでライブをし、ミリオンを獲得して『頂点』が見えたと納得した。悪い意味ではなく、表現者として新しいところを求めたくなったんです」 とも話している。
脱退してからもEXILEのメンバーとは親交がある。TAKAHIROのことも「最高のヴォーカリスト」と認めていた。EXILEを脱退した当時は思い出さないようにガムシャラに仕事に打ち込んでいたようだが、時が経ち「冷静に見られるようになってきた」というように、2007年のライブの大阪会場にも顔を出した。ATSUSHIはSHUNが脱退してから2年経った2008年現在でもSHUNのことを語る時は涙することがある。最後の出演となったMUSIC STATIONでタモリに「SHUNはどんなメンバーだったか?」と聞かれた時に、「歌手としての相方としてもそうだが、人間的にも凄く勉強になるところがあったし、本当に最高の相方だった」と話していた。
清木場自身、「観客としてEXILEを見たらやっぱり格好良くて、以前より益々ファンになった。自分があんな素晴らしいグループにいたことを誇りに思う」と話していた。
2008年9月17日付けで所属事務所LDHとavexからも独立した。
また、「練習してうまくなるのは好きじゃない。歌は一発の感覚。レコーディングも、ほぼ一発録りです。曲や歌詞からのイメージをふくらませ、突き詰めてから本番に臨む。その新鮮さをずっと求めています。」というポリシーを持っているという。
小简介
初めの頃の給料は15万円プラス歩合だったという。J Soul Brothersでの売れなかった時期は給料は6~10万位で、生活も困窮し観客0人の時期もあったという。ひどい時はメンバーで味噌汁を水で薄めて、人数分で分け合って飲んでいたという。公園でしわくちゃのシャツを着たまま、ダンスの練習していたこともあったという[1]。
EXILEのモデルになったグループはいくつかあり、その中でも一番影響を受けたのがアメリカの大所帯HIP HOPユニットのウータン・クランで、MAKIDAIが言うには「ウータン・クランはグループの在り方とかエンターテイメント性とか共鳴するところが多い。一軍のメンバーは映画出たり、洋服屋をやるメンバーもいる。EXILEがモデルにしたユニットのひとつといっても過言ではないです」とのこと。また、MAKIDAIが言うにはブラック・アイド・ピーズの音楽のジャンルを問わないスタイルにも大きな影響を受けたという。
多くのアルバムにインストが収録され、それらはライブでパフォーマーがダンスする際に用いられることが多い。ちなみに『EXILE EVOLUTION』に収録されている「DANCER'S ANTHEM」はオカザイル効果もあって、着うたランキングでトップ10に入ったことがあった。
楽曲やグループとしての方向性を決める際にはメンバーで会議を開いて話し合うという。以前、HIROが「ライブのリハーサルの6,7割が実は話し合いで終わる」と話していた。また、振り付けは自分たちで決めているという。
脱退したSHUNも含めた初期メンバーの6人全員が50万円ずつ出資し、有限会社エグザイルエンターテイメント(現:株式会社LDH)を立ち上げた。メンバー全員が社員であり、HIROが社長を務めている。2003年の終わり頃にある会社と合併し、株式会社LDHとなった。
HIROの提言により、EXPG (EXILE PROFESSIONAL GYM) を開講。ダンスの基礎はもちろん、EXILEの楽曲の振り付けの指導も行っている。
2004年からはソロプロジェクトも展開しており、ドラマ、バラエティ番組にも出演している。2007年5月には、HIROを除くパフォーマー4人が「劇団EXILES」を結成し、舞台進出(HIROはゼネラルプロデューサーに就任)。同年9月20日よりステラボールにて25公演を行った。
グループからの派生ユニットが多く、後述の「EXILES」に加え「EXILE VOCAL BATTLE AUDITION 2006」出身者5名で構成された「Dreamers」、同オーディション出身者の「JONTE」、EXILEの前身「J Soul Brothers」の名を継いだ同名のグループが存在する。
自身のアパレルブランド、「混じり気のない本物」をコンセプトにした「Gold 24karats Diggers」を展開。現在は東京の中目黒と大阪の心斎橋に店舗を構えている。
ZEEBRAが以前ラジオでクラブで踊ってるダンサーが増えてきたと話しており、EXILEあたりの影響が大きいと話していた。
ある競走馬に「ウマザイル」と名前を付けた。ちなみにそのウマザイルのデビュー戦は6着に終わった。
デビュー当初はJ Soul Brothers時代の路線を引き継ぐように、R&Bテイストのダンスナンバーを数多く取り入れていたが、プロデューサーのMax Matsuuraが離れた後はポップス路線に移行していく。特に2003年の『Together』のヒット以降この傾向は顕著となり、同作品の作曲を手がけた原一博による楽曲が量産されることとなる。この時期にメンバー達の間で、キャッチーなポップス曲のことを指す「エグキャッチー」という言葉が生まれている。音楽性の変化に合わせてボーカル二人(特にSHUN)による作詞の曲が占める割合が増していった。ATSUSHIはviviのインタビューにて、「最初はR&Bっぽく歌おうと無理していた。けど、Kiss youあたりからいい意味で力が抜けてきて、無理にR&Bを抱えなくても、日本人として伝えなくちゃいけないことがたくさんあると気付いたんだ」と話している。 第二章開幕後は「エグキャッチー」に加え、「Lovers Again」や「彼方から此処へ」のようなミディアム系統の曲を「エグセツナ」と称するようになった。同時にATSUSHIによる作詞が大幅に増え、第一章最後のアルバム『ASIA』では3曲だったのに対し、5thアルバム「EXILE EVOLUTION」では15曲中5曲、6thアルバム『EXILE LOVE』では12曲中半分を占めるようになった。
曲をレコーディングする際には方向性をメンバー同士で打ち合わせをし、レコーディングスタジオにも全員が来る。レコーディングしている際にダンスの振り付けも考えるという。R&BやHIP HOP系の音をベースした曲を作る際はトラックメイカーにいくつかトラックを用意してもらい、メンバー内でしっくりと来る曲を選ぶという。その上で歌詞を書いたり、ハモりを積んでいく。よほどのことがない限り、トラックから先に制作を始めるという。曲によっては、海外でレコーディングすることもある(主にGIANT SWING夫妻の拠点であるアトランタ)。なお、第二章以降ボーカルディレクション、TAKAHIROへの指導も主にATSUSHIによって行われている。パフォーマー達も歌うテーマに関しての意見は言うが、歌に関してはボーカル二人に全て委ねているという。
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