中岛美雪歌手简介:
档案
中岛美雪(艺名采与本名读音相同的平假名写法中島 みゆき,1952年2月23日-)是出生于日本北海道札幌市,出身于带广市的创作型女歌手、广播主持人。在1975年以单曲“蓟花姑娘的摇篮曲(アザミ嬢のララバイ)”出道,于1980年代前半得到极大欢迎,至今仍受到普遍的支持,是日本代表性的一位创作性女歌手。
她抑郁沉重的曲风和在广播节目中开朗的语气之间的落差也是为人所知的。
简历
中岛美雪的祖父中岛武市,曾是北海道带广市议会的议长。她的父亲担任妇产科医师。
她在北海道札幌市出生,5岁举家迁至岩内,念国中时搬到带广市,曾因母亲生病疗养而短暂搬到本州山形县。后来又搬回带广市完成高中学业。大学毕业于藤女子大学的文学院国文学系。
出道
中岛美雪在1972年5月参加全国歌谣音乐祭时,以一曲《我时常这样想》得到优秀赏。但受到当时的评审、日本名诗人谷川俊太郎所出的题目“我之所以身为歌手的意义”的刺激,先婉拒了出道的机会。其后经过3年的沉淀与深思此题目的意义后,于1975年5月,她参加财团法人雅马哈音乐振兴会主办的第九届流行歌曲竞赛(在日本又称PopuCon,也就是现在的TEENS' MUSIC FESTIVAL)以《傷ついた翼》一曲得奖。并于同年的9月、10月、11月再得到多项大奖,获得当时雅马哈音乐的社长川上源一的赏识,纳入为旗下艺人栽培。这其中又以11月时在世界音乐祭所得到的金奖最为难得。
她是日本唯一横跨四个年代(1970年代、1980年代、1990年代、2000年代)都得过公信榜(Oricon)第一名的歌手(五首歌分别是1977年的《わかれうた》;1981年的《悪女》;1994年的《空と君のあいだに》;1995年的《旅人のうた》;与2000年的《地上の星》)。中岛美雪出道以来,极少上电视节目,但歌曲仍旧很受欢迎,也常为许多歌手及电视节目和电影写歌。
2002年,NHK的岁末歌唱大赛—第53届红白歌唱大赛,中岛美雪首次参加,她以NHK的电视节目Project-X的主题曲《地上の星》,在富山县黑部水坝第四发电厂透过卫星连线方式献唱,是该届收视率最高(瞬间收视最高52.8%)的歌手。
她有四首歌曲收入日本的中学教科书之中,也是唯一以歌手身份担任过日本国语文教科书评审委员会的委员。从70年代至今,几乎每张专辑都被华人地区歌手所重新填词与翻唱。
除了演艺事业外,中岛美雪也担任了日本著名的音乐教育推广组织雅马哈音乐振兴会(財団法人ヤマハ音楽振興会)的理事[1]。
作品
被翻唱为中文歌曲之作品
《莫再悲》(原曲:忘れな草をもう一度)演唱:林子祥
《容易受伤的女人》 (原曲:ルージュ)演唱:邝美云、王菲
《恋你》 (原曲:EAST ASIA)演唱:万芳
《明天一个人的我依然会微笑》、《朋友情》 (原曲:空と君のあいだに)演唱:林佳仪、许志安、刘小慧
《爱迷惑》 (原曲:悪女)演唱:林佳仪
《时代》(原曲:時代) 演唱:叶蒨文
《爱的挽歌》〔粤语〕(无线电视剧集《刑事侦缉档案II》插曲)(原曲《孤独的肖像1st》)演唱:郑秀文
《萨拉热窝的罗密欧与茱丽叶》(原曲:with) 演唱:郑秀文
《脆弱》(《孤独的肖像1st》国语版)(无线电视剧《刑事侦缉档案II》插曲)演唱:郑秀文
《男人缘》(原曲:涙─Made in tears─) 演唱:曾淑勤
《最初的梦想》(原曲:銀の龍の背に乘って,《乘上银龙的背》,日剧五岛医生诊疗所片尾曲)演唱:范玮琪
《漫步人生路》(原曲:ひとり上手)演唱:邓丽君
《伤心太平洋》(原曲:幸福)演唱:任贤齐
《天涯》(原曲:竹の歌)演唱:任贤齐
《不会哭于你面前》(原曲:雨月の使者)演唱:杨采妮
《破晓时份》(原曲:あした)演唱:李克勤
《绝对是个梦》(原曲:やまわこ)演唱:汤宝如
《人生满希望》(原曲:雨が空を舍てる日は)演唱:徐小凤(1978)/谭咏麟(1980)
《为何对她冷冰冰》(原曲:かもめはかもめ)演唱:罗文
《美丽心情》(原曲:帰省)演唱:本多RuRu
写给华人歌手的歌曲
《人间》(作词:林夕) 演唱:王菲 (亦有中岛美雪本人亲自填词并演唱的日文版,曲名为“清流”)
中島 みゆき (なかじま みゆき、本名:中島美雪、1952年2月23日 - ) は、北海道札幌市出身(注・公式サイトでは札幌出身となっているが、大手マスコミのほとんどは帯広市出身として扱っており、ファンの間でも帯広出身とするのが常識となっている。詳細は経歴欄参照)のシンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。1975年にシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビュー。暗く重い作風とラジオ番組などでの明るい語り口とのギャップで1980年代前半に大きな人気を博し、現在も根強い支持を受け続けている、日本を代表する女性シンガーソングライターの一人。公式ファンクラブ名は「なみふく」である。
オリコンで4つの年代に渡ってシングルチャート1位を獲得した(1970年代:わかれうた、1980年代:悪女、1990年代:空と君のあいだに、旅人のうた、2000年代:地上の星)唯一のソロ・アーティストでもある。
小简介
楽曲
メロディ
覚えやすいメロディーラインもあるが、息継ぎがしづらい曲も多い。
歌詞
中島みゆきの曲には、日常風景の一部を切り取り、そこを行き来する男と女や働く人々をテーマにし、その一人一人にスポットライトを当て、その心情を曲にのせるものが多い。非常に巧みな比喩表現を用いており、聞き手によってそれぞれ異なった意味を受け取ることができる。また、普遍的なテーマを歌詞にしていることも非常に多い。例えば、1991年発売のアルバム『歌でしか言えない』収録曲の「永久欠番」。この曲は、「人は誰しも唯一無二の存在である」ということをテーマにした曲で、東京書籍発行の中学校用の教科書『新しい国語3』に引用されている。
対照的に、工藤静香に提供した「MUGO・ん…色っぽい」や西田ひかるに提供した「きっと愛がある」のように軽いノリの詞も存在する。ただし、この2曲に関しては、いずれもCMのキャッチコピー(「MUGO・ん…色っぽい」 - “ん、色っぽい”(カネボウ)、「きっと愛がある」 - “アイがある”(三菱電機))にひっかける方が望ましいと中島が指示を受けていた経緯がある。
また、「見返り美人」や佐田玲子に提供しセルフカバーした「くらやみ乙女」のように、悲劇に内包される喜劇性を最大限に強調したユーモラスな詞も存在する。中島みゆきの作品世界を自己パロディ化したような内容でもある。
歌唱法
基本的に、深いブレスと力強い声質を生かして朗々と歌い上げる。曲によって、また曲の中でも情景や詞が含む感情によって、いくつもの声色を使い分けている。例として、「地上の星」と「ヘッドライト・テールライト」の歌いまわしの違いが挙げられる。同じアルバムの中でももっと声質の大きく異なる曲が収録されることも多い。歌っているときの声と普段の喋り声とのギャップも著しい。なお、転調が得意であるため、転調する曲が多い。
記録
オリコンで4つの年代に渡ってシングルチャート1位を獲得した唯一のソロ・アーティストでもある。
1970年代:わかれうた(77年)
1980年代:悪女(81年)
1990年代:空と君のあいだに(94年)、旅人のうた(95年)
2000年代:地上の星(03年)
アルバム・シングルを併せたCD・レコードのトータルセールスでは、2005年までの時点で2131万枚。女性ソロ・ミュージシャンとしては歴代8位。女性シンガーソングライターとしては5位。
オリコンアルバムチャートでベスト10入りした枚数では、松任谷由実、松田聖子に次いで歴代3位。
地上の星がオリコンウィークリーチャート100位以内に連続してチャートインした週数では歴代1位(2005年現在)。
50代で週間オリコンシングル一位を記録した唯一の女性歌手であり男性でもサザンオールスターズ(桑田佳祐のソロも含む)と石原裕次郎と小田和正(歴代最年長記録)しか記録していない大記録である。
大事件
幼年期 - デビュー前
祖父は帯広市議会議長なども務めた中島武市、父・眞一郎は産婦人科医。札幌市に生まれ、5歳のときに岩内に引っ越し、11歳までを岩内で過ごす。その後帯広に移り、帯広小学校を卒業。帯広第三中学校に入学。1966年の夏には体調不良の母親が実家で一時療養するのに合わせて山形市に移り市立第六中学校に通うが、高校受験のため4ヶ月で帯広に戻る。その後、帯広柏葉高校を経て、藤女子大学文学部国文学科を卒業。
帯広柏葉高校3年生の時、文化祭で初めてステージを踏む。この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」である。大学時代は、放送研究会に所属し、ローカルラジオ局でスタッフのバイトなどをする一方、北大フォークソングのメンバーとも交流を持ち、活発に音楽活動を展開し、「コンテスト荒らし」の異名をとった。1972年には、「フォーク音楽祭全国大会」に出場し、「あたし時々おもうの」で入賞している(なお、この時の音源は大会実況版としてLP化されている)。なお後年、本人はコンテストに出場したのは(交通費や弁当代が支給されるので)、バイト代わりであったと述べている。大学卒業後は帯広に帰り、家業を手伝う傍ら、アマチュア活動を続ける。喫茶ジャズオーディオのマスター、渡辺晃が主催した「自由集団」の企画で多くのステージを踏み、デビュー前に地元では既に多くのファンを獲得していた(デビュー以前、オリジナル曲は既に100曲以上存在していた)。
デビュー - 1970年代後半
1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による第9回ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン、現在のTEENS' MUSIC FESTIVAL)に「傷ついた翼」が入賞。同年9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコード(現ポニーキャニオン)から晴れてレコード・デビューを果たす。そして、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞。つづけて11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞した(「時代」は同年12月にセカンド・シングルとして発売)。これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される。その後中島は川上を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されている。ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島はヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンである。
1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。同年には研ナオコに提供したシングル「あばよ」が大ヒットし、ソングライターとしての名を世間に知らしめる。翌年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。職業作曲家・作詞家としても、先述の研ナオコに提供した「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子「しあわせ芝居」、増田けい子「すずめ」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めた。
数少ない出演番組のひとつとして1977年から放送されたコッキーポップがある。その中で披露された「時代」では第6回世界歌謡祭グランプリ受賞の様子がインサートされ、「この空を飛べたら」においては加藤登紀子と共演している。
歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。この作品は後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲のひとつとなっている。なお、『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得している。
1980年代
1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーのあいだで大きな人気を集めた。1980年代前半にはミュージシャンとして更に大きな人気を集めており、1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、翌1982年の年間チャートでも6位を記録、また、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。1983年には柏原芳恵に提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞した。
しかしながら、それ以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続いた。当時中島は、甲斐バンドの甲斐よしひろやクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでいる。また、1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしている。中島は後年になって模索に励んだ1980年代中期を振り返り、「御乱心の時代」と称している。自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては工藤静香の「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当した(作曲は後藤次利)。
そんな「御乱心の時代」は、1988年のアルバム『グッバイ ガール』のプロデュースを手がけた瀬尾一三との出会いによって収まることとなる。中島にとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という瀬尾は適任らしく、それ以降現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっている。1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。
1990年代
1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えなかったが、その中において中島みゆきも例に漏れず、「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。この3枚のいずれもテレビドラマの主題歌として起用された楽曲であり、なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、現時点での中島にとっての最大級のベストセラーである。また、この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、それでも1980年代後半よりも安定した成績を収めた(『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっている)。1996年にはベストアルバム『大吟醸』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新(現在この記録を保持しているのは竹内まりや)。しかし、その後1997年から1999年にかけてのCDセールスは全体的に大きく伸び悩んだ。
一方で、1989年から始めた舞台「夜会」に自身がかけるウェートはより大きくなり、1995年以降に上演されたものは書き下ろしの新曲を中心に構成される、より大掛かりなものへと変貌を遂げた。
また、1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた。現時点でこの審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきただ一人だけである。
2000年代以降〜
2000年には25年に渡って在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社、ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。以降現在までヤマハから作品を発表している。
移籍後最初にリリースされた中島のシングルが、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」である。このシングルは主に中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週に渡ってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。
発売当初、このシングルは全くと言っていいほど話題にならなかった。しかし、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。このアルバムを発売するにあたっては、ジャケットの仕様をめぐり岩波書店からクレーム(岩波文庫をもじって「山波文庫」=ヤマハ文庫と表記した)がつき、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こった。
このロングヒットをきっかけに中島は2002年の第53回NHK紅白歌合戦に出演。『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。このとき初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録。また、極寒の中で極度の緊張から2番の歌詞を間違えたにもかかわらず反響は大きく、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いた。これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。同時に、1970〜2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。
2005年12月28日には『プロジェクトX』の最終回に出演。歌詞以外はほとんど声を発することなく、スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱した。その影響で2006年1月16日、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は、2004年2月2日以来のオリコンシングルチャート100位圏内返り咲き(66位)を達成。通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばした。
『紅白歌合戦』及び『プロジェクトX』の最終回で歌詞以外ほとんど声を発することがなかった(※秒単位で進行する紅白歌合戦の台本には「中島みゆきさんからみなさんへ」というアドリブ項目がわざわざ設けられていたのにもかかわらず)のは、(ファンは知っているのだが)当の本人の「あっけらかん」さが表れるのがいやだった、と本人がラジオ(2006年12月15日『オールナイトニッポン』にて)で話している。
1990年代前半から本格的に行うようになった海外でのレコーディングは2000年代からは主流となり、近年では、アレンジ等にベックの父親として知られるデヴィッド・キャンベルや、ヴィニー・カリウタ、ニール・スチューベンハウス、マイケル・トンプソンなどといった有名スタジオ・ミュージシャンを迎えて毎年アルバムを制作するのが恒例となっている。
1998年に一旦休止した「夜会」は2000年から再び不定期で行われるようになり、2006年の「Vol.14 24時着00時発」は、東京においてはこれまでのシアターコクーンではなく青山劇場で、大阪では初めてシアターBRAVA!において上演された。
2006年、第56回芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した。「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。シンガーソングライターとしては初の受賞者。
また同年には、TOKIOに提供した「宙船」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。
2007年8月から新たに設立されたヤマハミュージックアーティストがマネジメントが行う。同年秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われた。